EMDRとACEs – トラウマ治療の新たな可能性

EMDR
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トラウマ体験が人生に長期的な影響を及ぼすことは、近年の研究によって明らかになってきました。特に子ども時代の逆境体験(Adverse Childhood Experiences: ACEs)は、成人後の心身の健康に大きな影響を与えることが分かっています。一方で、Eye Movement Desensitization and Reprocessing (EMDR)療法は、トラウマ治療の有効な手法として注目を集めています。本記事では、ACEsの影響EMDR療法の可能性について、最新の研究成果をもとに詳しく解説します。

ACEsとは何か

ACEsの定義

ACEsとは、18歳未満の子どもが経験する様々な逆境体験のことを指します。代表的なACEsには以下のようなものがあります[6]:

  • 身体的虐待
  • 言葉による虐待
  • 性的虐待
  • 身体的ネグレクト
  • 情緒的ネグレクト
  • アルコール依存症の親
  • ドメスティックバイオレンスを受けている母親
  • 家族の誰かが服役している
  • 精神疾患のある家族
  • 離婚、死別、遺棄による親の不在

ACE研究の衝撃的な結果

研究の背景

1995年から1997年にかけて行われたACE研究では、17,000人以上の患者を対象に、子ども時代の逆境体験と現在の健康状態行動について調査が行われました[6]。その結果、ACEsの数が増えるほど、以下のようなリスクが高まることが明らかになりました:

  • 自殺企図(ACEスコア4以上で12倍)
  • アルコール依存症(7.4倍)
  • 欠勤(5.5倍)
  • うつ病(4.6倍)
  • 薬物使用(4.7倍)
  • 慢性閉塞性肺疾患(3.9倍)
  • 心臓病(2.2倍)
  • がん(約2倍)
  • 喫煙(2.2倍)

さらに衝撃的なのは、ACEスコアが6以上の人は、スコア0の人と比べて平均寿命が20年も短いという結果でした[6]。

EMDRとは

EMDRの概要

Eye Movement Desensitization and Reprocessing (EMDR)は、1987年にFrancine Shapiroによって開発された心理療法です[5]。EMDRは、トラウマ体験を適応的に処理し、解決することを目的としています。

EMDRの主な特徴は以下の通りです:

  1. 8つのフェーズからなる構造化されたアプローチ
  2. 適応的情報処理(AIP)モデルに基づく理論的基盤
  3. 両側性刺激(主に眼球運動)の使用
  4. トラウマ記憶の再処理

EMDRの効果

PTSDに対する効果

EMDRは、当初PTSDの治療法として開発されましたが、その後の研究により、様々な心理的問題に対しても効果があることが分かってきました。以下に、EMDRの効果に関する主な研究結果をまとめます。

24件のランダム化比較試験を分析したメタ分析では、EMDRが情緒的トラウマやその他の逆境体験の治療に有効であることが示されています[2]。特に、PTSDや関連症状の改善に効果があることが確認されています。

子どもと青年に対する効果

子どもと青年を対象としたEMDRの研究も増えています。Wanders, Serra, & de Jongh (2008)の研究では、10〜14歳の行動問題を抱える子ども26名に対して、4回のEMDRセッションを行いました[4]。その結果、自尊心情緒的・行動的問題の改善が見られました。

また、Soberman, Greenwald, & Rule (2002)の研究では、10〜16歳の男子29名(PTSD、ADHD、行動障害の診断あり)に対して3回のEMDRセッションを行いました[4]。その結果、問題行動の減少とターゲットとなった記憶への反応性の低下が確認されました。

その他の心理的問題への効果

EMDRは、PTSDだけでなく、うつ病不安障害摂食障害などの様々な心理的問題に対しても効果があることが報告されています[1]。

ACEsに対するEMDRの可能性

ACEsの影響が長期的かつ深刻であることを考えると、効果的な介入方法の開発は急務です。EMDRは、以下の理由からACEsの治療に有望な選択肢となる可能性があります:

トラウマ記憶の再処理

EMDRは、不適応的に保存されたトラウマ記憶を適応的に再処理することを目的としています。これは、ACEsによって形成された否定的な信念や感情を変容させる可能性があります。

幅広い適用範囲

EMDRは、PTSDだけでなく、うつ病や不安障害など、ACEsと関連する様々な心理的問題に効果があることが示されています

子どもと青年への適用

EMDRは、子どもや青年に対しても効果があることが研究で示されています。これは、早期介入の可能性を示唆しています。

短期的な介入

EMDRは比較的短期間で効果が得られる可能性があります。これは、長期的な治療が困難な場合でも介入の機会を提供します。

身体症状への効果

EMDRは、心理的症状だけでなく、身体症状の改善にも効果がある可能性があります。これは、ACEsが身体的健康にも影響を与えることを考えると重要です。

EMDRを用いたACEs治療の実践例

EMDRをACEsの治療に用いた具体的な事例を紹介します。

事例1: 複雑性PTSDを抱える成人女性

28歳の女性が、うつ症状と不安症状を主訴に来院しました。詳しい問診の結果、ACEスコアが7点と高く、子ども時代に身体的・情緒的虐待を受けていたことが分かりました。

EMDRセッションでは、最も苦痛度の高い虐待の記憶をターゲットとしました。8回のセッションを通じて、その記憶に対する苦痛度が大幅に低下し、「自分には価値がない」という否定的な信念が「自分は生きる価値がある」という肯定的な信念に変化しました。

治療終了後、うつ症状と不安症状は顕著に改善し、自尊心の向上も見られました。6ヶ月後のフォローアップでも、改善は維持されていました。

事例2: 行動問題を抱える青年

15歳の男子が、学校での暴力行為と家庭内暴力を主訴に来院しました。ACEスコアは5点で、両親の離婚と母親のアルコール依存症を経験していました。

EMDRセッションでは、母親の酔った姿を目撃した最も苦痛な記憶をターゲットとしました。6回のセッションを通じて、その記憶に対する苦痛度が低下し、「自分は無力だ」という否定的な信念が「自分にはコントロールする力がある」という肯定的な信念に変化しました。

治療終了後、暴力行為は大幅に減少し、学校や家庭での適応が改善しました。3ヶ月後のフォローアップでも、改善は維持されていました。

EMDRを用いたACEs治療の課題と今後の展望

課題

長期的な効果の検証

ACEsの影響は長期的であるため、EMDRの効果が長期的に維持されるかどうかを検証する必要があります。

複雑性トラウマへの対応

ACEsは多くの場合、複数のトラウマ体験を含む複雑性トラウマです。 EMDRをどのように適用すれば最も効果的かを検討する必要があります。

発達段階に応じた適用

子どもや青年に対するEMDRの適用方法を、発達段階に応じてさらに洗練させる必要があります。

予防的介入の可能性

ACEsの影響を早期に軽減するため、予防的なEMDR介入の可能性を探る必要があります。

他の治療法との統合

EMDRを他の治療法(例: 認知行動療法、家族療法)と効果的に組み合わせる方法を検討する必要があります。

今後の研究

ACEsの種類や重症度に応じたEMDRプロトコルの開発

ACEsの種類や重症度に応じたEMDRプロトコルの開発が重要です。

EMDRとACEsに関する大規模な縦断研究の実施

EMDRとACEsに関する大規模な縦断研究の実施が求められます。

神経生物学的指標を用いたEMDRの作用メカニズムの解明

神経生物学的指標を用いたEMDRの作用メカニズムの解明が必要です。

ACEsによる身体的健康への影響に対するEMDRの効果の検証

ACEsによる身体的健康への影響に対するEMDRの効果の検証が求められます。

EMDRを用いた予防的介入プログラムの開発と評価

EMDRを用いた予防的介入プログラムの開発と評価が重要です。

結論

ACEsが心身の健康に及ぼす影響の大きさを考えると、効果的な治療法の開発は社会的にも重要な課題です。 EMDRは、その独自のアプローチと幅広い適用可能性から、ACEsの治療に有望な選択肢となる可能性があります。

しかし、EMDRをACEsの治療に効果的に用いるためには、さらなる研究と臨床実践の蓄積が必要です。 特に、長期的な効果の検証や複雑性トラウマへの対応、発達段階に応じた適用方法の洗練が求められます。

また、EMDRを単独で用いるだけでなく、他の治療法や支援と組み合わせることで、より包括的なアプローチが可能になるでしょう。 例えば、EMDRによるトラウマ処理と並行して、安全な環境の提供や社会的スキルの訓練を行うことで、より効果的な介入が可能になると考えられます。

最後に、ACEsの予防も重要な課題です。 EMDRを含む効果的な介入方法の開発と並行して、社会全体でACEsを減らす取り組みを進めていく必要があります。それによって、次世代の子どもたちがより健康で幸福な人生を送れるようになることが期待されます。

EMDRとACEsの研究は、まだ発展途上の分野です。 しかし、これらの研究が進むことで、トラウマに苦しむ人々により効果的な支援を提供できるようになるでしょう。そして、それは個人の人生を変えるだけでなく、社会全体の健康と幸福にも大きな影響を与える可能性があるのです。

参考文献

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