人格障害は、長期にわたって持続する思考パターン、感情、行動の問題を特徴とする精神疾患です。従来の治療法は長期間を要し、高額な費用がかかることが多いのが現状です。そこで近年注目を集めているのが、眼球運動による脱感作と再処理法(Eye Movement Desensitization and Reprocessing: EMDR)です。本記事では、EMDRの人格障害治療への応用について、最新の研究成果をもとに詳しく解説していきます。
EMDRとは
EMDRは、もともと心的外傷後ストレス障害(PTSD)の治療法として開発されました。患者が過去のトラウマ体験を思い出しながら、セラピストの指示に従って両側性の眼球運動を行うことで、トラウマ記憶の再処理を促す手法です。
EMDRの基盤となる理論モデルは、適応的情報処理(Adaptive Information Processing: AIP)モデルです。このモデルでは、トラウマ体験が適切に処理されずに記憶ネットワークに孤立して保存されることで、さまざまな症状が引き起こされると考えます。EMDRはこの孤立した記憶を適応的に再処理することで、症状の改善を目指します。
人格障害とトラウマの関連性
人格障害の発症には、幼少期の虐待やネグレクトなどのトラウマ体験が深く関わっていることが明らかになっています。特に境界性人格障害(BPD)患者の多くが、複雑性PTSDの診断基準も満たすことが報告されています[1]。
このようなトラウマと人格障害の密接な関連性から、EMDRを人格障害の治療に応用する試みが始まっています。トラウマ記憶の再処理により、人格障害の中核的な症状である否定的な自己信念や感情調節の問題、対人関係の困難さなどが改善される可能性が示唆されています。
EMDRの人格障害治療への応用:研究成果
境界性人格障害(BPD)に対するEMDR
BPDは、感情の不安定性や衝動性、対人関係の問題を特徴とする人格障害です。BPD患者に対するEMDRの効果を検証した研究がいくつか報告されています。
Momeni Safarabadらの症例報告では、20セッションのEMDR治療を受けたBPD患者の症状改善が示されました[2]。治療は以下の3つのフェーズで構成されていました:
- リソース開発とインストール(4セッション)
- 脱感作と再処理(12セッション)
- パーソナリティの再統合とリハビリテーション(4セッション)
治療終了時点で、患者はBPDの診断基準を満たさなくなり、うつ症状も改善しました。これらの効果は3ヶ月後のフォローアップでも維持されていました。
また、Marissenらの研究では、BPDとPTSDを併存する患者12名に対し、通常治療(TAU)にEMDRを追加する介入を行いました[3]。8週間にわたり週1回90分のEMDRセッションを実施したところ、PTSD症状や全般的な精神病理、生活機能障害の有意な改善が認められました。
これらの研究結果は、EMDRがBPD患者のトラウマ関連症状だけでなく、人格障害の中核的な症状の改善にも寄与する可能性を示唆しています。
その他の人格障害に対するEMDR
BPD以外の人格障害に対するEMDRの効果を検証した研究はまだ限られていますが、注目すべき成果が報告されています。
Hafkemeijerらの研究では、PTSDを併存しない人格障害患者97名を対象に、EMDRの効果を検証しました[4]。治療群は5週間にわたり週1回90分のEMDRセッションを受け、対照群は5週間の待機リストに割り当てられました。その結果、EMDR群では対照群と比較して、全般的機能や人格障害の症状がより速く、有意に改善しました。これらの効果は治療開始3ヶ月後も維持されていました。
特筆すべきは、この研究での**脱落率がわずか9%**と非常に低かったことです。また、5週間という比較的短期間の介入で効果が得られた点も、従来の人格障害治療と比較して大きな利点といえるでしょう。
EMDRの作用メカニズム: AIPモデルからの考察
EMDRが人格障害の症状改善に寄与するメカニズムについて、AIPモデルの観点から考察してみましょう。
AIPモデルでは、人格障害の中核的な症状である否定的な自己信念(「自分には価値がない」など)や感情調節の問題、対人関係の困難さは、トラウマ記憶が適切に処理されずに孤立した状態で保存されていることによって生じると考えます[5]。
EMDRによるトラウマ記憶の再処理は、以下のようなプロセスを通じて人格障害の症状改善につながると推測されます:
- 否定的な自己信念の修正: トラウマ記憶に関連付けられた否定的な自己信念(「自分は無価値だ」など)が、より適応的な信念(「自分にも価値がある」など)に置き換えられる。
- 感情調節能力の向上: トラウマ記憶の再処理により、過去の出来事に対する情動反応が和らぎ、現在の状況に対してより適切な感情反応ができるようになる。
- 対人関係パターンの改善: 過去のトラウマ的な対人関係体験が再処理されることで、現在の対人関係における不適応的なパターンが修正される。
- 自己イメージの統合: 断片化していた自己イメージが、トラウマ記憶の再処理を通じてより統合された形に再構成される。
これらのプロセスにより、人格障害の症状が全体的に改善されていくと考えられます。
EMDRの実施方法: 人格障害治療における留意点
人格障害患者に対してEMDRを実施する際には、いくつかの重要な留意点があります。
1. 治療の段階的アプローチ
人格障害患者、特にBPD患者は感情調節の困難さや解離症状を抱えていることが多いため、段階的なアプローチが重要です。一般的には以下のような段階を踏むことが推奨されます:
- 安定化とリソース強化:
- 患者の安全を確保し、感情調節スキルを強化する
- ポジティブな資源(リソース)を開発し、インストールする
- トラウマ記憶の処理:
- 幼少期のトラウマ体験から処理を始める
- 現在のトリガー状況や将来の不安にも焦点を当てる
- 統合とリハビリテーション:
- 新たに獲得したスキルや洞察を日常生活に統合する
- より適応的な対人関係パターンの練習を行う
2. 解離症状への対処
人格障害患者、特にBPD患者では解離症状が顕著なことがあります。EMDRセッション中に強い解離が生じると、トラウマ記憶の適切な処理が妨げられる可能性があります。そのため、以下のような対策が必要です:
- セッション前に解離のレベルをチェックし、必要に応じて接地技法を用いる
- セッション中も定期的に解離の程度を確認し、必要に応じて処理を中断する
- 二重注意(dual attention)刺激の種類や強度を調整する(例:眼球運動の速度を遅くするなど)
3. 治療同盟の強化
人格障害患者との治療関係の構築には困難が伴うことがあります。EMDRセッションを効果的に進めるためには、強固な治療同盟が不可欠です。以下のような点に注意を払いましょう:
- 患者の体験を十分に傾聴し、共感的な態度を示す
- 治療の目標や進め方について、患者と十分に話し合い、合意を得る
- セッション中の患者の反応に敏感に対応し、必要に応じて休憩を取るなどの配慮をする
4. 複雑性トラウマへの対応
人格障害患者の多くが複雑性トラウマを抱えています。単一のトラウマ記憶ではなく、複数の関連するトラウマ記憶のネットワークを処理する必要があることを念頭に置きましょう。以下のような工夫が有効です:
- トラウマ記憶のテーマやパターンを見出し、関連する記憶をグループ化して処理する
- 一つのターゲット記憶の処理が完了したら、関連する他の記憶にも注意を向ける
- 必要に応じて、複数のセッションにわたってひとつのテーマを扱う
EMDRの効果:エビデンスのまとめ
これまでの研究結果から、EMDRの人格障害治療における効果について、以下のようなエビデンスが得られています:
症状の改善
- BPDの中核症状(感情の不安定性、衝動性、対人関係の問題など)の有意な減少
- うつ症状や不安症状の軽減
- 解離症状の改善
診断基準からの脱却
- 治療後に人格障害の診断基準を満たさなくなる患者の割合が増加
全般的機能の向上
- 社会生活機能や対人関係機能の改善
- 生活の質(QOL)の向上
治療効果の持続性
- 3ヶ月〜1年のフォローアップでも効果が維持されることが報告されている
治療の効率性
- 従来の人格障害治療と比較して、より短期間で効果が得られる可能性
- 脱落率が低い(約9%という報告あり)
併存症への効果
- PTSDやうつ病などの併存症状も同時に改善
これらのエビデンスは、EMDRが人格障害治療の有望なオプションとなる可能性を示唆しています。ただし、現時点では研究数が限られているため、より大規模で長期的な研究が必要とされています。
EMDRの研究結果
EMDRの人格障害治療への応用に関する研究結果をまとめると、以下のようなポイントが挙げられます:
治療効果
- BPDを含む人格障害の症状が有意に改善
- トラウマ関連症状(PTSD症状など)の軽減
- うつや不安症状の改善
- 全般的な機能や生活の質の向上
診断基準からの脱却
- 治療後に人格障害の診断基準を満たさなくなる患者が増加
治療の効率性
- 従来の治療法と比べて比較的短期間(数週間〜数ヶ月)で効果が得られる可能性
- 脱落率が低い(約9%という報告あり)
安全性
- 重篤な有害事象の報告はなく、適切に実施すれば安全な治療法と考えられる
併存症への効果
- PTSDやうつ病などの併存症状も同時に改善する可能性
長期的効果
- 3ヶ月〜1年のフォローアップでも効果が維持されることが報告されている
コスト効果
- 従来の長期治療と比べてコスト効率が良い可能性(ただし、さらなる研究が必要)
適用可能性
- BPD以外の人格障害にも適用できる可能性が示唆されている
これらの結果は、EMDRが人格障害治療の有望なオプションとなる可能性を示唆しています。ただし、現時点では研究数が限られているため、より大規模で長期的な研究が必要とされています。また、個々の患者の特性や併存症の有無などを考慮し、他の治療法との併用や段階的なアプローチを検討することが重要です。
EMDRと他の治療法の統合
EMDRは単独で用いられるだけでなく、他の治療法と組み合わせることで相乗効果が期待できる可能性があります。以下に、いくつかの統合的アプローチについて説明します:
1. EMDRとDBTの統合
弁証法的行動療法(DBT)は、特にBPDの治療に効果的であることが知られています。EMDRとDBTを組み合わせることで、以下のような利点が考えられます:
- DBTで学んだスキルを用いて、EMDR中の感情調節を支援
- EMDRによるトラウマ処理が、DBTのスキル習得をより効果的にする
- DBTの対人関係スキルとEMDRのトラウマ処理を組み合わせ、より健康的な対人関係パターンを形成
2. EMDRとスキーマ療法の統合
スキーマ療法は、幼少期に形成された不適応的なスキーマの修正を目指します。EMDRとの統合により:
- EMDRでトラウマ記憶を処理し、スキーマ療法でより適応的なスキーマを構築
- スキーマ療法で同定された中核的信念を、EMDRのターゲットとして処理
- EMDRによる感情処理とスキーマ療法の認知的介入を組み合わせ、より包括的な変化を促進
3. EMDRとメンタライゼーションに基づく治療(MBT)の統合
MBTは、自他の心的状態を理解し適切に反応する能力(メンタライゼーション)の向上を目指します。EMDRとの統合により:
- EMDRでトラウマ記憶を処理し、MBTでメンタライゼーション能力を向上
- トラウマ体験に関連する対人関係パターンをEMDRで処理し、MBTでより適応的な対人関係スキルを練習
- EMDRによる感情処理とMBTの対人関係フォーカスを組み合わせ、より豊かな対人関係体験を促進
これらの統合的アプローチは、個々の患者のニーズや症状の特性に応じて柔軟に適用することが重要です。また、治療者は各アプローチに精通し、適切に統合する能力が求められます。
今後の研究課題
EMDRの人格障害治療への応用に関しては、まだ多くの研究課題が残されています。以下に、今後取り組むべき重要な研究テーマをいくつか挙げます:
大規模無作為化比較試験 (RCT) の実施
- より大きなサンプルサイズでのRCTを行い、EMDRの効果をより確実に検証する
- 長期的なフォローアップ (2年以上) を含む研究デザインの採用
異なるタイプの人格障害に対する効果の検証
- BPD以外の人格障害 (例: 回避性人格障害、強迫性人格障害など) に対するEMDRの効果を調査
- 複数の人格障害を併存する患者に対する効果の検討
EMDRと他の治療法の比較研究
- EMDRとDBT、スキーマ療法、MBTなどの確立された治療法との直接比較
- 併用療法 (EMDR + 他の治療法) と単独療法の効果比較
メカニズム研究
- EMDRが人格障害症状を改善するメカニズムの神経生物学的解明
- トラウマ記憶の再処理と人格構造の変化の関連性の探究
予測因子の同定
- EMDRが特に効果的な患者群の特徴を明らかにする
- 治療反応性や脱落のリスク因子を特定
プロトコルの最適化
- 人格障害患者に特化したEMDRプロトコルの開発と検証
- セッション数や頻度、治療期間の最適化
コスト効果分析
- より詳細で長期的なコスト効果分析の実施
- 医療経済学的観点からのEMDRの有用性の検討
質的研究
- 患者の主観的体験や治療プロセスに関する詳細な質的分析
- 治療者の視点からみたEMDR実施上の課題や工夫点の探索
文化的要因の検討
- 異なる文化圏におけるEMDRの適用可能性と効果の検証
- 文化に応じたプロトコルの修正点の探索
遠隔治療の可能性
- オンラインやVRを用いたEMDR実施の有効性と安全性の検討
- 遠隔治療に適した患者群の特定
これらの研究課題に取り組むことで、EMDRの人格障害治療への応用に関するエビデンスがさらに蓄積され、より効果的で個別化された治療アプローチの開発につながることが期待されます。
結論
EMDRは、人格障害、特に境界性人格障害 (BPD) の治療において有望なアプローチであることが示唆されています。トラウマ記憶の再処理を通じて、人格障害の中核的な症状である否定的な自己信念、感情調節の問題、対人関係の困難さなどが改善される可能性があります。
EMDRの主な利点として、比較的短期間で効果が得られる可能性、脱落率の低さ、併存症への効果などが挙げられます。また、他の治療法 (DBT、スキーマ療法、MBTなど) との統合的アプローチも期待されています。
しかし、現時点では研究数が限られているため、より大規模で長期的な研究が必要です。また、個々の患者の特性や併存症の有無などを考慮し、適切な治療計画を立てることが重要です。
今後の研究課題としては、大規模RCTの実施、異なるタイプの人格障害に対する効果の検証、他の治療法との比較研究、メカニズム研究、予測因子の同定、プロトコルの最適化などが挙げられます。
EMDRは人格障害治療の新たな選択肢として注目されていますが、その適用にあたっては慎重な評価と適切な実施が求められます。今後のさらなる研究の進展により、EMDRを含む包括的な人格障害治療アプローチの確立が期待されます。
参考文献
- National Center for Biotechnology Information. (2018). Trauma-focused EMDR for personality disorders among outpatients: TEMPO study protocol for a multi-centre single-blind randomized controlled trial
- ScienceDirect. (2023). https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S0005791623000010
- PsycNet. (2014). https://psycnet.apa.org/record/2014-16836-003
- Trials Journal. (2022). https://trialsjournal.biomedcentral.com/articles/10.1186/s13063-022-06082-6
- Frontiers in Psychiatry. (2024). https://www.frontiersin.org/journals/psychiatry/articles/10.3389/fpsyt.2024.1331876/full
- ResearchGate. (2023). Trauma-focused EMDR for personality disorders among outpatients: TEMPO study protocol for a multi-centre single-blind randomized controlled trial
- Springer. (2023). https://connect.springerpub.com/content/sgremdr/8/2/74
- PubMed. (2024). https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/36645926/
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