「嫌われる勇気」を読んだのですが、
ぜんぜん理解できませんでした!!
分かりやすく解説してください!
嫌われる勇気の解説第4弾。
前回は、
・課題の分離
によって自分らしい
自由な人生を送れるようになることを
解説しましたが、
ここからが、本題ですので
最後までお読みいただけたら幸いです。
目次
課題の分離は始まりに過ぎない
とお伝えしましたが、
それだけだと、
人は孤独に陥ってしまうことに
なりかねません。
課題の分離によって
他人の課題を背負いこむことなく
「自分」というものを
しっかり確立することは
準備段階であってゴールではない
とアドラーは言います。
では、アドラーの言うゴールとは何か?
それは、
「共同体感覚」
です。
共同体感覚が
対人関係のゴールであり、
共同体感覚がしっかりあれば
私たちは幸せに・豊かに生きられる
アドラーは言います。
ざっくり言うと、
です。
他者と、
そしてこの世界と、
ひいては宇宙とも
繋がっているような感覚。
人は社会的な動物であり、
一人一人が関係性の中で
生きている存在です。
「自分」という視点から
世界を見るのではなく、
と私自身は解釈しています。
共同体感覚を高める方法
アドラーは
以下のことを提唱しています。
・他者を仲間だと思えること
・「自己への執着」から「他者への関心」
・役に立っているという感覚, 貢献感
一つずつ解説します。
他者を仲間だと思えること
と以前解説しましたが、
仲間と思えるようになるためには、
全てのことが実は無数とも言える人との
繋がりよって成り立っていることを認識すること
とアドラーは言います。
例えば一つのパンがあったとしたら、
その背後には、
小麦を小麦粉に加工してくれた人、
加工するための機械を作ってくれた人、
機械やパンを運んでくれた人、
運ぶのに通った道路、
道路を作ってくれた人、
その資金源である税金、
小麦を育ててくれた人、
小麦が育つために必要な水、空気、土、
地球の豊かな環境、太陽、
全てを成り立たせてくれている宇宙」
などと、一つのものから
無数の繋がりがあることが見えてきます。
このような客観的な事実を
しっかりと見ることで、
そうすることで、
他人は競い合い、
お互いを蹴落とし合うような
「敵」ではなく、
この共同体を一緒に作り上げている
「仲間」だという感覚に変わる
とアドラーは言っています。
これは、仏教の教え中核でもある
「縁起」の思想にも近いものがあり、
もしかしたらアドラーは
仏教を深く学んでいたかもしれません。
もしくは、
聖書にも似たような記述があるのでの
アドラーはもしかしたら聖書の影響を
受けているかもしれません。
「自己への執着」から「他者への関心」へ
私たちは基本的に
自分にしか関心がない生き物です。
「自分が何をしようか?」
「自分が何を成し遂げたいか?」
「自分の利益」
「自分が得になる情報」
このようなものを常に探していると
言っても過言ではありません。
アドラーはこのような
自己への執着が苦しみを生む
と言います。
課題の分離ができておらず、
承認欲求が強い人は
自己中心的である
ともアドラーは言っています。
承認欲求の強い人は
人間関係の中で相手に気を使う
おとなしい人のような感じがするのですが、
結局は、
「《自分》が他人からどう思われているか?」
を過剰に気にしているので、
自己中心的と言います。
このような、
自己への執着や自己中心から、
「他者への関心」に
切り替えることが
共同体感覚を強める上で大切
と言います。
役に立っているという感覚, 貢献感
他者を「仲間」だと思い、
自己への執着を「他者への関心」に切り替え、
さらに、他者や共同体に、
・役に立っているという感覚
・貢献感
が大切と言います。
また、この貢献感は
主観的なものであっても構わないとのこと。
確かに、ポジティブ心理学でも、
【労働】
お金のためだけに働く
【キャリア】
自分の出世や経歴のために働く
【コーリング】
貢献を意識し、仕事そのものの意義のために働く
これら3つの働き方があり、
最も幸福度が高い働き方は
であるという結論が出ています。
なので、アドラーの言う通りで、
貢献感は私たちが幸せに生きる上で
非常に大切なことであることは
間違いなさそうです。
褒めることについて
前回も少し触れましが、
褒めることも叱ることも
アドラーは否定しています。
褒める・叱るというのは、
そもそも上の立場の人から
下の立場の人にする行為であり、
「縦の関係」を生み出してしまう
とアドラーは言っています。
社長が部下に対して、
「よく頑張ってるね!」
「偉いぞ!」
とは言っても、
部下が社長に、
「よく頑張ってるね!」
「偉いぞ!」
とは言いませんよね。
だから、
褒める・叱るということが
実は縦の関係(上下関係)を生み出し、
それが劣等感、
ひいては劣等コンプレックスに
つながるとのこと。
このような縦の関係ではなく、
私たちが目指すべきことは
横の関係であり、
「全ての人は対等である」
という感覚です。
褒める・叱るといったことをやめ、
横の感覚が強まれば強まるほど
他者との比較から生まれる劣等感は
どんどん少なくなっていきます。
そもそも、上下の感覚がなければ
劣等感を抱きようがないので納得です。
アドラーは明確に、
「感謝」
と述べています。
社長が部下に、
「いつもありがとうございます」
ということは不自然ではないですし、
逆に部下が社長に、
「いつもありがとうございます」
などと言っても問題ありません。
感謝や喜びを伝えることは
縦の関係ではなく横の関係になる
とアドラーは言うわけです。
また、
「〜〜してくれたからありがとう」
といった、
行為への感謝ではなく、
相手の存在そのものに感謝することが大切である
と言います。
・生まれてくれてありがとう
・生きていてくれてありがとう
・存在そのものに感謝している
などと、
行為のレベルではなく
存在のレベルで感謝の言葉を
言われることで、
人は自分に価値があると感じることができ
勇気を持つことができる
と言います。
7つの習慣とアドラー
ここまでアドラーの主張を
見てきましたが、
私自身の解釈をお伝えします。
このアドラー心理学は、
自己啓発の名著「7つの習慣」の
という人間の発達のプロセスに
当てはめると理解しやすくなります。
→課題の分離ができておらず、
劣等感や承認欲求に縛られている段階
→課題の分離と承認欲求の否定によって
「個人としての自由」
「自分らしさ」を確立した段階
→他者貢献を通して
共同体感覚を深め続ける段階
以下、詳しく解説します。
【依存】
誰もが親などの養育者のもとで
完全に依存した状態で生きています。
そして、
大人になるに連れて
劣等感や承認欲求に悩むことになります。
またこの段階では、
・傷つきたいくない
・嫌われたくない
・変わりたくない
といった自分の隠れた目的に
気づけずにいます。
・もっと成長したい
・もっとより良くなりたい
という優越性の追求という
本能があるにも関わらず、
劣等感を
「言い訳」
にして留まっている段階です。
【自立】
自立の段階では、
によって個人としての
「自由」をしっかりと確立しています。
自分の課題だけに集中し、
他人の課題を一切抱えることはありません。
また、他人が自分の課題に
踏み込むようなことも許しません。
完全ではないにしても、
他者からの承認を求めるようなことはなく、
自分が定めた自分らしい生き方を
貫こうとします。
また、
にも従って生きており、
【相互依存】
・自分はこう生きる!
・自分の考えこうだ!
・自分の課題はこれだ!
と「自分」という感覚を
はっきりさせ、
良い意味で自分と他人の
区別をつけるのが
「自立」の段階なのに対し、
相互依存の段階では、
無数の繋がりの中で
自分の存在が生じているのであり、
自分が独立した不変の存在ではないと悟ることで、
上下の感覚や勝ち負けの感覚ではなく、
「すべての人は対等である」
「お互いがお互いによって支え合っている」
といった感覚が強くなり、
他者を「仲間」だと思う感覚や
「感謝」の気持ちが強くなっている段階です。
いかがでしょうか?
アドラー心理学の一つの解釈ですが、
理解を深めるのに役立てて
いただけたら嬉しいです。
存在レベルでの感謝
最後にアドラーの
「存在レベルで感謝する」
という主張ですが、
おそらく、
キリスト教かユダヤ教の影響
を受けています。
・どれだけ悪いことをしてしまったとしても
・能力があってもなくても
神の無条件の愛は
常に降り注がれている
というのが、
一神教の価値観です。
このような無条件の愛を
言い換えたのが、
「行為ではなく存在レベルでの感謝」
なのではないかと解釈しています。
西洋圏に住んでいて
聖書の影響を受けてないことは
ありえないので、
大きくは間違っていないでしょう。
もともと一神教の
バックグラウンドがある方にとっては、
「行為ではなく存在レベルでの感謝」
というアドラーの考えは
しっくりくるのではないかと思いますが、
そうでない方にとっては
実現不可能な綺麗ごとのように
感じられるかもしれません。
「存在レベルでの感謝」は
実際には難しいかもしれませんが、
まとめ
今回の共同体感覚・・・
正直まとめるのが非常に難しかったです。
アドラー自身が共同体感覚を
明確に定義していないのもありますが、
そもそも簡単に言葉で定義できるものではなく、
本文中にも少し書きましたが、
アドラー心理学は、
仏教やキリスト教の考え方にも
通じるところがあり、
今回の「共同体感覚」を
宗教的な言葉に言い換えるなら、
とシンプルに
要約できるのではないかと思います。
おそらく、
このような宗教的な体験を
アドラーは過去にしていて、
それを「共同体感覚」という言葉に
頑張ってしてくれたのではないかと
私自身は思っています。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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